カテゴリ:ALS( 38 )
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2015年 06月 13日 |
b0090654_11184610.jpg父の病気が発覚していろいろ調べている時に見つけたイベント、Walk for ALS
ALSという病気を知ってもらい、寄付金は病気と闘う人・家族や研究のために使われるそう。
今までは、父は日本にいるんだし、他の人のことまで…という気持ちがあったのですが、今回はそろそろいいかなと行ってみました。
b0090654_1118575.jpg思っていたよりも多くの方が集まっており、ご当人が車椅子で参加されていたりしました。
また、いくつか団体もあるようで、寄付をする時に『特定の団体・個人宛か、一般的にか』と訊かれたほど。
Tシャツにも、『Walk for MY DAD』『Walk for ○○○(個人名)』とプリントされていらっしゃる方も多くいらっしゃいました。
本来ならば一緒に歩くべきだったのでしょうが、現在も闘病中の方々のお姿を拝見し、どうしても父のことを思い出して泣けてきてしまい、そのまま帰ってきました。
まだまだこういうことに参加するには、父のことは私の中で重かったようです…。
b0090654_1119899.jpgいただいたTシャツ。
いつかこれを堂々と着て外出出来るようになれるといいなと思います。
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2014年 10月 03日 |
夏に帰国していた間に、浮腫みが酷いために検査入院することになった父。
2ヶ月経った今、担当医から『出来るだけのことはしますが…』と母に話をされたとのこと。
腎臓がうまく機能していないらしく、本来ならば透析を受けなくてはいけないほどなのに、ALSであり呼吸器を付けていることで、負担を増やすことは出来ないと投薬による治療のみを続けていただいていましたが、どうやらそれも限界のようです。
新年は迎えられそうになく、担当医は『出来ればご自宅に帰してあげたかったのですが…』と言葉を濁されたようで、早ければ今月中にも…という状態のようです。
予定としては来春を考えていましたが、どうやら母からの連絡が来次第、帰国することになりそうです。
つらいとかかなしいとか、そういうことは父がALSだと診断された時からそれなりの覚悟はしていましたが、10年単位での介護を考えていただけに、あまりにも早いその『時』が信じられません。
でも、泣いてなんかいられません。
誰よりも父が、そして母が頑張っているのですから、私も出来るだけのことをしないと!
とりあえずは、いつでも帰国出来るよう、準備だけはしておこうかな…。
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2012年 08月 29日 |
帰国した時にポスターか何かを見かけて気になって、カナダに戻ってきてから検索して見始めたのが、ドラマ『ビューティフルレイン』。
10万人はいると言われている若年性アルツハイマー病にかかった父親と、まだ8歳の娘の親子愛がテーマ。
若年性アルツハイマー病は、ALSと同じく完治させることが不可能な病気で、難病指定されているのだったかな?
覚えられなくなる、から、忘れてゆく、最終的には家族はもちろん自分のことも忘れてしまうという病気で、このドラマ以外でも題材になっているし、韓国でも映画になっていたような。
とにかく、本人の意思に関わらずどこまでも家族をはじめとする介護者に負担がかかっていくことは、ALSと同じだ。
しかも、ドラマの中の担当医の苗字が、父の主治医の先生と同じ(漢字は違うけれど)なのも、皮肉に思える。
私の場合は、幼すぎるからではなく、住んでいるところが遠すぎるからという理由ではあるけれど、それでも父親のために何かをしたいという気持ちが空回りしてしまうのも、分かりすぎるほどよく分かってしまう。
ただ、決定的に違うのは、当たり前だけれど、病気の症状。
若年性アルツハイマー病では、身体は健康なままなのに、脳が全てを忘れてしまうから、動くことも出来なくなってしまう、というのに対し、ALSは、脳はどこまでも怜悧なままなのに筋力(を司る神経)が麻痺してしまうために動けなくなる、ということ。
前者は、当人に自覚はなくても動けてしまうから徘徊などもあるし、そういう意味での周囲の負担は多大なもので。
逆にALSの場合、どうやっても身体は動けないから、そういう心配はないけれど、でも本人の意思はどこまでもはっきりとしているのにそれを伝えられないというつらさがあるから、むしろボケたり脳死状態になってしまった方が介護する側にとってもされる側にとっても楽なのではないかと思ってしまう。
そういう、今この状態だからこそ身を以て分かるつらさが、例え種類は違うとしても、ドラマで題材にされていると、どうしても気になってみてしまう。
見たら現実を思い出してもっとつらくなると分かっていても、それでもどこかに今後に活かせるヒントがないかと、探してしまう。
最終話がどういう終わり方になるのか分からないけれど、出来れば、希望ある余韻を残した形を望むものである。
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2012年 08月 02日 |
8月2日の朝刊、第1面にあった、この見出し。

患者のiPS細胞活用 ALSに効く物質発見

もしかしたら、父がもう一度呼吸器をはずし、自分でものを食べられるようになるかもしれない。
歩いたりすることは出来なくても、またお喋りできるようになるかもしれない。
年齢から考えて、健康な人でも身体のあちこちに不具合が出ていてもおかしくないから、完治はなくても仕方がないと思うし。
ただ、この病気になり、『もっとああいうことをしたかった、こういうものを食べたかった』という、言葉にしない父の願いを今一度叶えられたらいいなと、そんな希望を持ってもいいのかな…。
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2012年 03月 16日 |
明日から4週間、すっかり恒例となった(?)定期帰国です。

帰国が決まったあとで、またもや父が入院という状況になり、その時は軽い肺炎ということで、それが治ればすぐにでも退院出来るはずだったのですが。
本日、姉から『直接会う前に知らせておこうと思って』という前書き付きで連絡があり、なんと、父がアルツハイマー型認知症であると診断されたそうで。
確かに昨年の夏の入院あたりから、何度も同じことを訊いたり、話してあったことを知らないと言ったりしており、変だなとは思っていました。
基本的にALS患者は、身体が動かないのに意識だけは最後まではっきりしていると言われていたので、痴呆は考えておらず。
ただ、その入院の原因となったのが呼吸の停止で、だからもしかしたら酸素が脳にまわらなかった時間があったために、脳に少し障害が残ったのかな、と思ったことはありました。
…なんでこう、根本的治療薬が見つかってない病気ばかり発症させるかな、父?
ただ、同じ忘れてくれるのなら、つらいとかしんどいとか、痛いとか怠いとか、そういう負の感じだといいなと願っています。
ともあれ、新しいことは忘れるけれど、昔のことは大丈夫だそうなので、なかなか会えない私のことでも、きっとある程度は覚えていてくれていることを祈りつつ。

さあ、また父の介護&母の手伝いを、頑張ってきます!
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2012年 02月 19日 |
父から、メッセージが届いた。

『おはよ。くるのを、たのしみにしているよ。』

私の誕生日に、父からの一言。

来月半ばから数週間、帰国の予定ではあるけれど。
呼吸器をつけ話も出来ず、上半身もほとんど動けなくなってしまった父が、苦労してパソコンを駆使してメッセージを送ってくれることに、どれほど私が嬉しく思うか、泣けてくるほど幸せに思うか、きっと父は知らなないだろう。

大好きだよと、伝えられなかったこと。
大事なんだよと、伝えきれないこと。

もう、遅いかもしれないけれど。
でも、遅すぎる前に、伝えたい。

大好き。
ずっと今まで言えずにいて、ごめんね。
大好きだよ。
あなたの娘に生まれて、本当によかったと思ってる。
大好き。
大好きだよ。

愛してくれて、ありがとう。
これからは、私が愛していくから。
これからも、一緒にがんばっていこうね。
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2011年 06月 19日 |
昨年6月23日(カナダ時間)、父がALSと診断されたと連絡が入りました。
奇しくも、その数時間前にはだんなが解雇されたと帰ってきました。
当時、5月時下旬から今のお仕事を引き継ぎ、緊張しいな上に、年度末ギリギリだったのにいただいたファイルが全てWindowsで作成されていたために我がMacでは書式等読み込めずに全て作り直さねばならず、夏休み用の宿題も作らなくちゃとあわあわしている途中でプリンタが不具合を起こしたりもして、何度パニックに陥りかけたことか。
さらに、5月末にはお世話になっていたバンクーバー書道クラブの先生が来加・ご指導くださるということで、(クラブ内最年少な)私はとにかく裏方であれやこれやとお手伝いをしようと焦りまくり、その後はクラブから盆踊りやパウエル祭に出品する作品を仕上げたり。
同時に、義弟くんが2ヶ月ほど我が家に滞在していたので、それなりにくつろげない日々が続き。
緊張とストレスから、手が震えて止まらなかった時期もありました。
いやはや、いまだに思い出すだけで動悸がしてしまいます。

そして、それから1年。
ありがたいことに、なんとかだんなはいい職場に雇ってもらえ、三交代勤務に愚痴をこぼしつつも、それでも人間関係は良好のようで、楽しく通ってくれています。
私も、途中で数週間ずつのお休みをいただきつつも、なんとか丸1年、お仕事をさせていただくことが出来ました。
バンクーバー書道クラブは、実質3月末で閉鎖してしまいましたが、夏の展示作品までは先生に見ていただくことが出来たので、今年が最後かもしれませんが、参加させていただくことが出来ます(ということで現在鋭意製作中…)。

でも、父の方は、良くはならないと分かっていつつも、やはり辛いことばかりです。
今月初めにほとんど呼吸が止まってしまい、救急車で病院に運び込まれました。
球麻痺から始まった症状は徐々に広がり、現在は上半身はほとんど動かすことが出来なくなり、喋ることも書くことも不可能となりました。
そして今回、おそらくは呼吸器官の筋力が衰え、自分で息をすることが出来なくなってしまったのだろうということで、近日中にも気管切開の手術を受けることになりました。
途中、不注意な医療ミス(?)で不必要な痛みをストレスを受けてしまい、かなり体力も低下してしまっているので、術後の状態も不安です。

そんな中、現在の日本では、父のような症例の人は入院させてもらえず、自宅介護が基本とされています。
けれど、今のところ父の面倒を見られるのは、年老いた母一人きり。
実家のある市の制度上、24時間態勢の(特に夜間に来てもらえる)ヘルパーさんはおらず、でも、病院側からは『プロでも最低2人、出来れば3人以上でないと無理です』と言われています。
そんな状況で、取り得る手段としては、
1 私と姉が実家に帰り、母と3人で介護をする
2 姉の家(実家から車で5分弱ですが違う市)を建て増しして父の介護室を造り、姉家族と母で介護をする
3 制度がかなり整っている大きな市に引っ越す
の3つのみ。
1は、おそらく父にも一番望ましい体制なのだと思いますが、私も姉もそれぞれ家庭があり、特に私は海外で遠く離れているため、これから何年続くか分からない介護のために帰国するとなると、多分離婚とか移民権放棄とかそういうことも思料しなくてはいけません。
姉は近くに住んでいるとはいえ、やはりだんなさまやまだ幼稚園の子どもにもかなりの負担がかかるでしょう。
私たち姉妹はともかく、母は『だんなさまや家族に出来るだけ迷惑をかけたくない』と思っているので、この方法はおそらく実現不可能なのでしょう。
2は、姉夫婦が、父の病気が発覚したときからずっと言い続けてくれています。
もともと姉も義兄も以前は介護職に就いていたので、知識も経験も症例を見たこともあり、また、姉の住む市は、両親宅の市よりも介護等に対する制度はマシなのです。
けれど、24時間介護が必要な父と一緒に住むということは、それだけ姉はもちろん家族にも迷惑や負担がかかることになり、それが期間限定ならまだしもどれだけの長期間になるか分からない状態なので、甥っ子もまだ小さいこともあり、母はなるべくなら遠慮したいと言います(私が帰国する時の滞在場所がないということも小さいけれど理由の一つなのかもしれません)。
3は、それぞれの心情を考慮しなければ、おそらくは一番いい方法なのだと思います。
とはいえ、見も知らぬ土地で、知り合いもおらず、当然かかりつけの医師も変更になるという状況は、父はもちろんですが、母にも相当な負担になることは間違いなく。
姉も、今ならば近いからたとえ30分でも時間があれば寄れるけれど、遠くなってしまえばそれが出来なくなるから、余計に心配だと言っています。

いずれはしなければいけない決断でしたが、それでも実家でなんとかやっていけるんじゃないかと思っていました。
けれど、父の症状の進行があまりにも早いこと(平均というものがない病気ですがそれでも他の方々より3倍くらい早いそうです)、医療機関や介護サービス等が(市の制度的に)頼れないこと、24時間態勢で介護に携わることが出来る家族がいないこと、等々、どこから考えて行けばいいのか分からない状態です。
しかも、早ければそれらは、父が8月中にも退院するかも知れないので、それまでに決めなければいけません。
同じような状況にある方々は、皆無ではないと思うのですが、そういう場合どうされていらっしゃるのか、知りたいです…。

…やっぱり、私が離婚でもなんでもして日本に帰るのが、母曰くの『犠牲』が一番少なくていいのかなあ…。
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2011年 03月 28日 |
今日の午後から、やたらと苦しそうに痰を詰まらせていた父。
吸引器の使用も、看護師さんたちにやってもらうと十数秒で終わるのに、今日は何回も、(自分でですが)30分近くかけてやっていたり。
告知から9ヶ月。
『余命(もしくは呼吸器を付けるまで)3年』といわれていたのに、1年も経たないうちに気管切開の手術を受けることになるかも知れず、あまりの進行の早さに呆然としています。
あまりにも、今日のような状態が続くのであれば、近日中にも施術していただくことになりかねませんし、現実に起きてほしくない未来が、あまりにも早く視野圏内に入ってきてしまっていて、つらいです。
こんな状態で、私はカナダに戻れるのでしょうか。
早くも、だんなか父(と母)かという選択を、迫られているように思えてなりません…。
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2011年 03月 26日 |
昨日は、父の検診の日で、病院まで行ってきました。
その後、次の検診までの薬を、近所の薬局まで受け取りに行ったのですが。
なんと、父の主食とも言うべき栄養ドリンクが、今回の東日本(東北・関東)大震災で工場が被災し、足りないといわれました。
ドリンクを作る工場は大丈夫だったけれど、その缶を作るところが完全に停止しているんだとか。
中身があるんなら、缶にしなくてもいいからくださいと思わないでもないんですけど、ドリンク剤とはいえ薬局でしか販売されない医薬品ですから、衛生面等いろいろあって簡単にはいかないのでしょう。
何とかあっちこっちに電話をかけてくださり、次の検診日までの3週間分はかき集めてくださいましたが、問題はそのあとどうするか、です。
同じドリンク剤を必要としている方々は全国にたくさんいらっしゃる上、被災によって製販が困難なのであれば、一時的にとはいえかなりの長期間、入手できなくなるでことは確実です。
おそらく病院側もそういう状況は分かっているでしょうから、何らかの対応策は考えてくださると思いますけど、父にとっては大げさではなく命綱ですので、せめて代替品があることを願っています。

今回の震災で、うちはちょっと大きめに揺れたかな?という程度で、物も落ちたりしなかったし、いつも行くスーパーでも買占め等で棚が空になることも(今のところ)見ないし、義援金を送ったり節電したりするくらいしか協力できないなあと思っていましたが、こんなところで被災の余波が来るとは…。
母や私は、『あるものを食べればいい』と我慢することも出来ますが、胃ろうでしか栄養を摂れない父はそういうわけにはいきません。
なんとか対応策を見つけなければ…。
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2011年 03月 10日 |
祖母(父の母)と会ったり、彼女の話を聞いたりすると、なるべく他の人に迷惑をかけないように謙虚にならなくてはと思います。

90歳を過ぎても3LKの借家(しかもかなりの安価)に一人で住んでいたためか、人に合わせるとか共同生活をするということが出来ません。
これまでも、些細なことで呼び出されることはしょっちゅうで、たとえば、車で10分のところのお医者さんに行くのに、車で40分かかるところに住んでいる父を送迎に呼びつけることを当たり前と思っていたような人でした。
けれど、父の病気が発覚し、今までのように気軽に尋ねて行ける状況ではなくなってしまうからということを納得してもらった上で、うちから近いケアハウス(お年寄り専用のアパートみたいなところ)に引っ越してもらったのですが。
これがまあ、不満で不満で仕方がないらしく。
なにかにつけ、自分は『あんたたちのために犠牲になってこんな監視つきの狭い部屋に閉じ込められている、退屈だ』というようなことをもらします。

一人息子である父が難病で、毎日戦っているというのに、なんという贅沢さでしょうか。
悪いことは言いたくありませんけれど、封建制度的な忠誠を求められているような感じです。
自分が一番偉い、何よりも自分を優先しなくてはならない、何かが起きたらそれはすべて自分以外の人の所為だ…という感じで。

そんな態度があまりにも顕著になってきた昨今、本日またもや事件が起きまして。
当事者である母はもちろん、経過を聞いた姉と私も、『何をしようともう私たちとは係わり合いを持たないという前提で、勝手にしてもらえばいいんじゃないの?』と思ってしまったほど。
明日、父のことで手一杯な母に代わって、祖母のことは細かなことまで一任されている姉と一緒に祖母のケアマネージャーさんと会って、お話をさせてもらう予定です。
ケアマネさんも、祖母の言動にはそこそこの不快感はあるような感じでしたので、流れは急激になる可能性もあり。

父のことで心身ともにいっぱいいっぱいな母はもちろん、忙しいだんなさまと手のかかる息子に加え、自身の予定はひとつもないのに手帳が真っ黒になっている姉に、少しでも負担が減るように、願っています。
同時に、そんな祖母の姿を見て、我が身を振り返ってみたりもして。
誰にも迷惑をかけないなんて不可能ですけれど、それでも感謝の心を忘れずに、謙虚に過ごしたいと思います。
卑屈になりすぎる必要はないにせよ、自分が一番正しいとか、そんな奢った考え方をしないように、したいです。
『口は災いの元』という諺を、忘れないようにね。
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